愛しとるのです
当て屋の椿 5,6巻収録 『神の棲む山』
ツキが悪い。そんなことが長屋に続くある日、椿の営む当て屋に見知らぬ少年客がきていた。
少年・茜は「突然姿を消した友達・八重を捜してほしい」という。茜の住む山を取り巻く怪事の物語。
個人的に自分が既読している中で一番か二番に好きな物語です。
ミステリーものですが考察・回想もろもろ思いっきりネタバレしています。ご注意下さい。
・怪異
まずこの物語に登場する8つの怪異を振り返る。
- 長屋で連続するツキの悪い出来事。
- 山道で突如誰かが消える神隠し。そこに現れる白鷺の存在。
- 長屋にて、屈託なく笑う茜の足下に転がっていた殴り殺されたような野良犬の死体。その死骸に残る大の男の手より大きなたくさんの拳の跡。
- 茜の父の傷ついた左目。本人曰く「俺の誇り 俺の活きた証」
- 山下の村の人々。「あの山は呪われてんだ」とひょっとこを被り山を鎮める祭りを行っている。「茜」という名前から「山の子供」と導きだし突然鳳仙に「あんた ワシ達を責めに来たのか」と集団暴行を加える。語られる「十年前」という言葉。
- そして姿を現す、大きな大きな拳で村人を襲う歪な大男の影。
- 山の一軒家にて、既に死に土の臭いを放っていた茜の家族。
- (後述)
やや区分が細かいかもしれないが、複数の怪異が同時進行的に現出し一連の「理屈」へと結びついていく『当て屋の椿』の分厚さ(長さに非ず)がこの物語にもよく現れている。
・その怪異の「理屈」を繋げて見てみる。
山に棲む茜の家族は金屋子(かなやご)神を祀っていた。白鷺に乗る金屋子神は人々に鉄の技術を教え、『たたら』という鉄を作る技能集団の祖神とされたという。茜の家族もたたらの一族なのだろう。たたら師は猛火の光を見続けるせいで隻眼になったりする。茜の父もそれだ。(4)
たたらは鉄が沸かない時、亡き技師長の死体を掘り起こして炉の柱にくくりつけるという。まるで土から金を沸かせるお呪いのように。死の穢れを善しとする神であり、茜家は屍は遺された者の糧とするのをならわしのようにしていた。なので茜の父も、茜も、死にかけの子持ちの犬を前にすれば親犬を殺し、仔犬達の糧とさせた。(3)
たたらの技能は水を汚すため、下の里とは決して相入れなかった。山下の里村の者達は古くから山を恐れており、後からやってきてその山を支配しようとする茜の一家は何かにつけ疎ましかった。
……山の一軒家には美しき女(茜の母)がいると知った村の者達は、ひょっとこの仮面で顔を隠し茜家を襲撃する。翌朝帰ってきて惨劇の後を見た茜の父は、幼き茜以外のボロボロになった我が家族を皆殺しにする。
「ただ ただ 愛しとるのです」
そして茜の父も自ら命を断った。「茜 お前に唯一つ残すは その命」 それが十年前の出来事。(5)
茜は父の教えにそって自死した父の骨を持ち歩き、それを己の身体にくくりつけることで歪な大男と化して力を得ていた。(6)(3)
山は大石の落下が続いており、しかも下の土が随分弱い。なので人の上に落下すればそのまま人ごと地面の土に埋もれてしまい、「まるで元通り」の山の姿になるのだ。(2)
そこに何者かの意志があるかどうかは読んだ人の解釈に預けたい。
終盤のクライマックス
については、そのまま触れるしかないだろう。
茜は不意を突かれ村の者に斬り殺される。村の者達は怒り喚く鳳仙と椿を尻目に、全てが終わったと山を下りる。「これでもう山を恐れる事もない」「祭りをせんといかんからの」。
白鷺が一斉に飛び立つ。崇める民はもういない、もうここに神はいないと言わんばかりに。
ここで、椿から最後の問いがなされる。
8. 十年も前から崩壊を始めた山、何故村の者達はそんな場所の下にずっと棲み続けているのか?
今までのすべてを呪いだと折り合いをつけ、事実が呪いへと擦り替えているからだ。(8)
人は己の範疇を越えたものを己の心の安寧を保つ為に己の都合で理解する。(1)
歪な大男の存在も、山で続く神隠しも、ともすれば茜家に巻き起こした惨劇も、全てが山の呪いであると。
祭りの太鼓の音に刺激されたように、山が一気に崩壊し崩れだす。祭りを行う村の人々ごと大きな雪崩に飲み込んで。
誰かの標を辿るかのように、茜家族が棲んだ山の家だけが残った。椿と鳳仙、鳳仙に担がれた茜の亡骸は、白鷺の群れを追った末そこに辿り着き、一難を逃れたのだ。
鳳仙に懐いたように屈託なく笑う少年だった茜。こんな復讐のために、お前は在ったのか? 頭を打ち付けながら茜の亡骸に問う鳳仙。ふと、岩壁が崩れ、一人の少女が姿を現す。
「…八重だね?」 椿の問いに少女は頷く。
茜が話していた友達、「一人で居た俺の所に やってきた」という八重。八重と共に過ごした日々。思い起こされる、「八重は俺が守るんだ」という茜の言葉。
これが望みか 茜
この為に生きたと言いたいのか 茜
・雑感
始まりは人の理屈。だが歪んだ理屈は怪異として姿を現し、理屈が解かれてもなお怪異として暴走し続ける。そして暴走の果てに破滅にまで至った末、最後の最後に “人” の姿に還る。人の心の物語に。
これぞ当て屋の椿のメカニズム。その怪奇と心を反復する作りは圧巻に尽きる。
筆者の敬愛するゲームクリエイターの言葉に「実際に起きたことが歴史に変わり、歴史が伝説になり、神話に変わっていく。その境界線を舞台とすることで、現実と非現実の間を行き来して、ファンタジー感を作り出している」とある。冒険モノRPGと怪奇ミステリーという差異こそあれど、その言葉を思い出す。普遍的な心のリアルと神話にまで遡るロマンを見事に繋ぎ合わせ物語を広げて見せる。
『山に棲む神』の物語は、一つには茜の愛の物語だろう。和気藹々とした家族を失くし、その屍を糧とせよと生きてきた茜。そこに現れた八重という友達。あの日母を苦しめたひょっとこの仮面が、村の者達だと気づいたその時。
「八重は俺が守るんだ」 誰から? 自分の身を脅かした何かから、この村から、村が謳う「呪い」(──そういった村の在り方)から、ではなかろうか。
愛を奪われた茜という少年が、愛を守ろうとしたお話。そう、茜は結局愛を「奪われた」のだろう、屍を物として与えられても、最も大切なものは糧にすることも出来ず。そしてその大切なものをこそ八重から貰ったのだろう。
とは言え、この物語、引いては当て屋の椿という漫画にそういったお涙溢れる感傷は出てこない。やはり「無情」という情がよく似合う。言葉にならないという言葉が鳴るような、心の何処かに捉えれない何かがすり抜けるような感覚。当て屋の椿とはそういう漫画だ。
そういえば、八重の出自についてはまるで語られていない。村の娘なのか、別の所からきたのか。そこはちょっとセコいなと思う。
・言葉
当て屋の椿には、物語の端々に心にふと残る言葉が織り込まれている。上までの項にもいくつか載せているが、他にも幾つか心に触れたものを載せたい。
…という項目にしたかったが、書き終えてみれば「茜が神になる過程とその中身について」の話ばかりになってしまった。まあいいか。
「歓喜であれ 狂喜であれ 作り物であれ 笑みには己が存在する 本当に恐ろしいのは その笑みを その己を その血肉を 違うだろう そうではないだろうと 引き剥がされた時」「それでも人は 己でいられるのだろうか」
茜の違和感を覚えるほどに屈託のない笑顔、それが剥がれた先はまさに怒りや嘆きの表情だった。すべてを失くしても「強く生きよ」と生きてきた茜の結果がその分厚い笑顔になった。
大抵の創作物において「己」とは仮面の下の本性を指すことが主だが、当て屋の椿はその上に被せられる歓喜や作り物すら「己」と称した。そしてその仮面の下の素顔をいつしか自分自身が見失ってしまうことを。
マイナスな表情をも「己だから」と許容できてしまう人は思ってるよりも少ないが、筆者はそういう者が好きだったりする。
「どんな恨みも祟りも 神なら祈れば許してくれる けれど人は許さない 許せない それならば 神と成ってもらうしかないだろう」
この物語においては茜家族に対する村人達の回答のようにこの言葉が提示される。茜が人である以上、彼は村人達を許せないし現に許さなかった。だから村人達は茜家族(への不安)を「神」と片づけた。あの山の呪いであると。崇める民の想像から神は創造される。
茜の父もまた、茜を我が身を捧げるべき神とした。それに対する茜の想いが直接語られはしないが、一般的な「人の理屈」から逸脱したものではあるだろう。咄嗟に我が身より大切な人の命を優先したという話は現実にもままあるが、それを共同のルールとして徹底することは私達から見れば危うく末恐ろしい。実際それが恐ろしい決断だからこそ、「神の下のしきたり」という形で疑問を持たないくらいに徹底されていたのだろう。
村人が茜を神にし、茜の父もまた茜を神とし、そして白鷺が山が茜の存在に呼応するように動いた。というのも、この物語の大きな怪異。
思えば「理屈」を解き明かすことが命題である当て屋の椿と、様々な手に負えない事象から(それが自分自身で汚した己の手であれ)「神」だ「ツキ」だ「しきたり」だと目を閉ざす登場人物達の姿は真逆の有り様である。どちらを是とするか、正しいかなんて話はする気もないが、漫画『当て屋の椿』はドス黒いほどの人の理屈に向き合う「理解」の側に根を張った作品だと思う。
──少なくとも八重と鳳仙は、茜に人として寄り添い共にあっただろう。そして茜の「八重は俺が守るんだ」という言葉には、誰かを神に仕立て上げるような無責任さはあっただろうか。
「里になんて下りなければ 俺がずっと子供で 何も気づかなければ 俺を咬む全ての歯車が 害をなす ああそうか 俺が欠けていればよかったのか 俺の空はこんなに 歪んでしまった」
多くの僻みがちな読者の共感を呼んじゃいそうなこの言葉。
神と扱われど要は「厄災」。敵意や嫌悪を意識したとき人は「俺がいなければ」と自己否定に陥る。ある意味、茜父の “自己犠牲” への意趣返しかも。
「盛れ 高まれ 昇れ 神よ この死肉を持ってゆけ」
「継ぐ勇気 遂げる喜び 有り難い」
そして、「愛しとるのです」の一文から始まるこの物語の芯に触れる部分。愛の対象を “神” とし我が死肉を捧げんとする有り様。父一人なら自己犠牲の美談にもなれたかもしれないが、それが一族の(本人も疑いを持たぬほど染みついた)しきたりで実際家族を皆殺しにした後となれば、ただただ不気味で危険な世界でしかない。
そうして死肉を糧に生きることとなった茜。本当にその「理屈」は茜の救いになったか? どうだろうか?
それへの結論はさておき、茜が今際の時に鳳仙に触れられた時の言葉を振り返らせていただきたい。
「ああ あたたかい」「俺はいつでも皆に触れることが出来たけど…」(母の亡骸に触れる幼い茜の姿)
「ああ あたたかい」
八重と手を繋ぎ山を駆ける茜の姿を思い出す。