FF10のメインシナリオもキャラも別に好きではない筆者が、それでもFF10が好きなところの話

 

FFのナンバリング新作がそろそろ出ますね。

やる意向はあるけどリアルがちょっとバタついてるし、しばらくしてから(あとPS5買ってから)始めようかなとか思っています。

 

というのはまあそれとして、

 

 

 

 

 

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FF10のメインシナリオもキャラも別に好きではない筆者が、それでもFF10が好きなところの話」。

言うまでもなくFF10はシナリオ本編において多大な人気を誇り、いやそれどころかその後10年近く(或いは今日まで)の国産RPGのシナリオの方向性に影響を与えたとも言えるような作品。そこにあまり関心がないということを何も今更になって言う必要もなかったし(それ自体が珍しい意見でもないし)、別に言葉にすることもなかったのですが。

ソシャゲの市民権獲得も合わせてかどうにもゲームの話題がキャラクター話にばかり偏りがちにも感じる昨今。いや私自身もその流れに大いにのっかってきたし何も偉そうなことは言えないのですが。改めて違う部分からのフィーチャーをきっちり書いてみたらどうかとも自分に対して思い、じゃあFF10を通して触れてみようかなと。

 

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好きじゃないと言っても別に強度に毛嫌いしているわけでもないです(思うところがないわけでもないけど)。キャラクターは、強いて言えばユウナのお父さんが「柔和で誠実そうだけど言葉の節々が妙にオラついてる」感じに先導者的リアリズムを感じて好き。あとデザイン的にはアニマ。

また一方でのバトルシステムについても私は特に好きではない。スフィア盤も「やってること初代聖剣とほぼ一緒では?」みたいに思っちゃうし、アクティブタイムバトルじゃなくなったし。

 

ではどこが好きなのかと言うと、2つに分けて「世界観設定や背景の構築」「強いオリジナリティを築きつつも統率されたファンタジー的デザイン」と呼べる部分。それらについての話になります。

 

プレイ自体は2,3年前にリマスター版を改めてやりました。全く関係ないが過去の自分のツイートを見直していたら「何故FF10や7CCあたりを語る人たちは、ほぼ自分と同年代が中心のはずなのに今でもきゃぴきゃぴしたノリなのか」という文章が出てきて吹いた。

 

今更も今更な内容ですが一応FF10のネタバレを全面に含みます。

 

 

 

 

 

◆  世界観の振り返り

 

FF10のラスボスと言えば? 主人公ティーダの父親・ジェクト。何故ジェクトがラスボスだったのか? ジェクトが『シン』だったから。では『シン』とは──あの世界「スピラ」を1000年もの年月にわたり破壊し続けてきた巨大な存在は何だったのか?

 

 

 


祈りの歌~ヴァルファーレ - YouTube

 

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1000年前、スピラにおける大きな戦争があった。ザナルカンドとベベルという国が争った「機械戦争」と呼ばれる大戦である。

高度な機械技術を持ちながらも実戦では未だ魔法・召喚士に頼っていたザナルカンドと、軍事面までにも強大な文明機器を投入させていた大国ベベル。その争いはやはり戦車に竹槍とでも言うべき有様だったのか、ザナルカンドの凄惨な敗状に及んでいた。

 

そしていよいよベベルがザナルカンドへの侵攻へと及ぼうとする時、ザナルカンドの統治者であった召喚士エボンは、ザナルカンドの民をすべて祈り子(=生け贄)に捧げて「夢のザナルカンド」を召喚した。実在のザナルカンドが滅ぼされてしまう前に、その国を『幻想』の中でのみ存続しつづける幻に代えたのだ。

ガガゼト山の山奥に潜む人間たちが埋め込まれた不気味な岩壁こそが、まさしく生け贄に捧げられた古代ザナルカンドの民の最期の姿である。

 

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エボンはそれと同時に、強大な重力魔法をもってザナルカンド中の生命エネルギー(幻光虫)を凝縮させた巨大な鎧を作り出した。とてつもなく強大な魔物のような姿をした鎧を。

その “強大な魔物” は、ベベルをはじめ世界中の文明を攻撃・破壊しはじめた。夢のザナルカンドを脅かす可能性があるもの──大型兵器や人の集まりを感知して破壊しに襲いくるというトンデモ襲撃能力を有していたのだ。人々はその恐ろしい化け物を『シン』と呼んだ。

『シン』の内部にいるエボンは、夢のザナルカンドを永遠に召喚し続ける魔物のような存在、エボン=ジュとなった。


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このゲームの真のラスボスである。

 

 

この破壊的存在に対してなんとか対処すべく『シン』を倒そうとする者たちが現れる。その最初の人物が召喚士ユウナレスカ、『シン』を生み出したエボンの娘である。

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機械兵器も数の暴力も先行破壊してくる『シン』に対して残された選択肢は、最強の魔法には最強の魔法で立ち向かうこと。「強い絆で結ばれた人間と使用者自身を犠牲にする召喚魔法=究極召喚」であった。夫・ゼイオンを祈り子に捧げたユウナレスカはこれをもって『シン』と対峙し、勝利する。両人の死とともに『シン』を討ち倒したのだ。

 

しかし、『シン』は復活した。

いや、ユウナレスカが生み出した究極召喚を『シン』=エボン=ジュが乗っ取ったのだ。究極召喚もまた『シン』と同様に高濃度の幻光虫で出来ているため、エボン=ジュの永続的な重力が究極召喚獣を乗っ取り新たな『シン』にしてしまったのである。

ただエボン=ジュが究極召喚を吸収する期間だけ束の間の平穏が生じただけであった。しかしその束の間の平穏こそが、スピラの人々にとって唯一の救いであり、乞うべき平和となった。そして『シン』を倒そうとする者達には、これ以上の打開策は最早なにもなかった。

 

 

後に、復興したかつての戦国ベベルを中心に「エボン教」と呼ばれる宗教が発足する。多くの人々にとって謎の脅威であった『シン』について、「『シン』とは機械に溺れた人間たちへの罪である。機械禁止や銃器禁止、質素倹約といった規則を守り、罪を償い続けることによって、いつか永遠の平穏が訪れる」「また、修練を経た召喚士による究極召喚も『シン』を制する手段であり、寺院は『シン』を倒すために戦う召喚士たちを支援する」という教義・綱領をもった宗教機関である(エボン当人を教祖に祀り上げている辺りがなんとも面の皮が厚い)。

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この教義はスピラ全土(スケープゴートにされたアルベド族を除く)において支持され、エボン教は人々の信心となり、社会通念となり、法となり、統治権力となった。エボンの賜物だな。

一方で「究極召喚では『シン』を倒せない」という真実(その他諸々の不都合)には封をされた。寺院の利権や保身やらも多分にあったが、実際のところその真実を明かしたところで何の解決にも救済にもならなかったからだ(ついでに言えば展望のない組織がただ腐敗を重ねていくだけであることもまま自然な話でもあった)。スピラはもう完全に袋小路であった。

 

かくして、「文明の発展を狙い撃ちにする『シン』」と「対して何の術もなく痛み止めとして究極召喚を送り出すしかない統治機関」と「『シン』と戦っては死んでいく召喚士たち」「そして究極召喚による新たな『シン』の登場」という『死の螺旋』──世界全体が発展を失った閉塞が、1000年に渡り続いていく。これがFF10世界の舞台であり背景である。

(1000年は流石に長すぎだろとも思うがまあファンタジーだし。『シン』が仮に戦争や世界恐慌のメタファーだとするなら確かに1000年経っても繰り返してるかもなあとも)

 

今日も、『祈りの歌』がスピラに響き渡る。

 


祈りの歌~ユウナレスカ - YouTube

 

いえゆい のぼめの

れんみり よじゅよご

はさてかなえ くたまえ

 

 

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さて、『シン』の内部で営まれる「夢のザナルカンド」はもはや何者にも脅かされることのない完全な聖域であり、完璧に隔離された幻想世界であった。しかし偶然にも、その夢の中から抜け落ちて現実のスピラに落ちてきた者が現れる。夢の海の果てまで泳ぎ来ていた男・ジェクトである。

夢の世界から飛び出したジェクトは、『シン』打倒を目指して旅をする召喚士ブラスカやアーロンと出会い、その旅に同行する。やがて(おそらく後に息子が辿るのと同じように)自分が元いた世界と今いる現実のスピラの実態を知り、そしてブラスカの究極召喚となって『シン』を倒す。そうしてエボン=ジュに吸収され、ジェクトが新たな『シン』となった。

──しかしその過程で、ジェクトは残されるアーロンを『シン』の内部にある夢のザナルカンドへ連れていくこと、そして彼に成長した息子を連れ出させ自分を倒させることを頼んだのである。その約束の実行が、“『シン』自身による夢のザナルカンド襲撃(ティーダのスピラ連行)” というFF10本編のオープニングに至る。

 

それはほぼ無謀な博打というか何というかであったが、結果的に今回の『シン』=ジェクト自身が夢のザナルカンドの存在であったことや、ジェクト本人の思念が未だ消えきっていなかったことが大きく作用し、究極召喚に頼らない『シン』の突破〜そして核であるエボン=ジュの撃破に繋がった。エボン=ジュは夢のザナルカンドもろとも消滅する。

 

 

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と、なんだか知ってる人には分かりきった話を長々と書いてしまった気がするが、これがFF10の世界設定〜その顛末であり、筆者がFF10で特に好きな部分である(細かいところ誤りがあったら申し訳)。

少なくとも10までのナンバリングFFの中では最も丁寧に練られた世界設定だと思う。FF10世界独特の様相や空気感の背景、そこに見られる風習や教示や現実的危機、またファンタジーならではの魔法を駆使した設定が大いに活きている。

何よりもこの世界観に説得力を持たせているのが、これらのあらましがどっかにまとめてテキストで置いてあるとかではなく、ゲーム内で歩いて物語を辿っていくうちにそれを悟らせる構造がしっかりと立てられていることである。スピラにおける集落の状態やそこに住む人々も、エボン教を信じきっているワッカも、その歪みに気づいているアルベド族側のリュックも、旅の果てで待つ唯一の当事者である死人ユウナレスカも、全てがこの世界の形を説明づかせる。「まず物語のメインはティーダ・ユウナ・ジェクトの使命や関係性」であるように進みながらも、その奥に宿る舞台や背景設定がしっかり見える構造になっている。

ちなみに『シン』が重力魔法(グラビデ系統)を多用してくるのは、先にあったように『シン』自体が重力を力にして機能している存在だからである。FFをはじめとしたファンタジー作品で技能力のイメージとして出てくる(出続けていた)“重力操作魔法” をしっかりと物語の設定に組み込んできており、旧来のFFシリーズに触れていればこそハッとさせられる。

 

一方で「まるで主人公の為に用意されたような設定」という指摘もあり筆者もそれを思わなくもないのだが(野村・野島FFはとかく主人公とヒロインとラスボスだけで盛り上がってる感が強い)、しかし今作においては逆に「この条件下だからこそティーダだけが主人公たりえたのだろう」と頷かせるだけの厚みにもとれると思う。少なくとも「主人公アゲ一般」と一蹴してしまうにはあまりにも惜しいボリュームだ。というか改めて一から辿るとこの物語の真の主人公、ジェクトだろ(「RPGは本質的にラスボスの物語」だとは重ね重ね至言なんだな)。

 

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◆  その世界観の表現について

 

FF10の世界観・ビジュアルはよく東洋風とかオリエンタルといった言葉で形容される。が、それは多分ユウナはじめ召喚士やアーロンらのイメージから先行しているもので、主人公ティーダやジェクトの容姿なんかはバリバリに現代風(かつノムリッシュ)だ。一方でルールーやキマリたちは従来の中世風や多種族的なファンタジー観を提示している。

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世界風土の造形というところでも、寺院を備えた田舎村ピサイドから始まってブリッツ会場があるルカはほぼ近未来都市だし、またいかにもな魔法の森や古代遺跡などもあり、平たく言えば何でもありだ。しかしそれをゴチャついては見せない画一性、まとまりの良さがFF10にはあった。

物語の流れを追いながら見ると、現代〜近未来風な夢のザナルカンドから始まって、いかにも古代の遺産めいた遺跡探索、寺院のあるピサイドや召喚士ユウナたちとの邂逅、そのまま未開拓っぽい野道を旅する先で近未来的都市ルカへと、一直線の物語のなかで多様な景色がそれぞれ何故そういう地域であるかのサインとともにスムーズに誘導されている。

 

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過去作のFF7は、ガイア理論なり古代民族と古代魔法なり宇宙侵略生物なりバイオテクノロジーなり異国文化なり倒錯精神世界なりと「ファンタジー詰め合わせ」みたいな世界でありながらも、分かりやすさからか序盤のミッドガルらしいサイバーパンク風イメージが前面にプッシュされた。続くFF8は学園モノから魔女との戦いへという物語だったが、世界観からゲーム全体まで「良くも悪くもごっちゃごちゃ」「闇鍋」とも言えそうな作品になった。そこからの軌道修正の流れがあり、10の多色彩ながらカチッとまとまったそれぞ “洗練” とも呼べるスタイルが生まれたと思う(その無尽蔵ながらまとまりの良さは、後のKHやWOFF、或いはディシディアシリーズにも受け継がれていく)。

 

そしてその多彩さとトータル性を訴えるに非常に大きな貢献を果たしていたのが、本作に流れる音楽だろう。

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オリエンタルな雰囲気には『萌道』や『いつか終わる夢』が、現代風な雰囲気には電子アレンジされた『プレリュード』やブリッツまわりのBGMが、従来のファンタジーらしさには『雷平原』や『召喚獣バトル』が流れ、ついでに植松が「作ったけど使うタイミングがなかったのでムリヤリ入れた」とかいうどプログレ曲『シーモアバトル』などが本作の多彩さと統一感を指し示す。

FF10では浜渦氏・中野氏の強力な助っ人もありつつだが、この多彩な世界観を多彩さそのままにかつドラマチックに音で伝えられる植松音楽がFFを何十倍にも引き立ててきたことは言うまでもない。いやもう怒られるのを承知で言えば「FFのシナリオの良さ」なるものって8割くらい「植松音楽の良さ」だった。そう言い切ってもいいくらいに、世界観やゲーム自身に徹底して寄り添いつつもジャンル多彩かつ派手に鳴りまくる植松音楽が作中世界や作品総体をリードしてきたのだ。

 


いつか終わる夢 - YouTube

 

まあ、あんまりFF10の音楽ばかり持ち上げられるので「いや9以前の植松の方がキレてたで」と言いたくなることはままあります。

あとFFの主題歌のチョイスって丁度植松が離れてからその時流行りのポップスミュージシャンを起用する流れになったんだな、という気づきが……じゃあFF5リメイクはSigridで頼むわ。

 


Thank Me Later - YouTube

適当に言ったけどわりとマジでドンピシャだろ。

 

 

 

 

世界観やそこにある文脈をより楽しむこと、読むことや何よりゲームの中で体感すること。一本道ゲーだシナリオゲーだと言われつつもその醍醐味をしっかり提示したFF10はやはり良い作品だったと思う(まあ、普段の筆者はスクエニへの意思表示として過剰なFF10・7推しには乗っからんぞという思念を抱えているが)。そしてつくづくこのような世界図を2,3年ペースで提供していた当時のゲームスタッフ達には頭が上がらないものである。

そうだ、「少なくとも10までのナンバリングFFの中では最も丁寧に練られた世界観」だと書いてしまったが、ナンバリングの外側ではイヴァリース史こと松野泰己の『FFT』が登場したり、一方で河津が『サガフロ2』で世界観の創生とは何であるかを叩き出したりしており(ロマサガ1の時点で神がかってたけど)、当時のそういった流れのなかでFF10が生まれたことも改めて記しておきたい。

 

 

──そんなFF10ももう二十数年前。ゲームの形もFFの立ち位置やスタンスも大きく変わってきた。しかしゲーム自身の面白さというものは、例えばトランプの「大富豪」とかが変わらないように変わらないものだと思いたい。

折角なのでちょっとだけFF16に触れると、「髙井浩ミンサガ・ラスレムのバトル担当。または神竜の宝箱を考えた人)」という一点で期待しています。あとソニーの鎖からはもうなんとか離れよう。FF16や今後のFFも面白いゲームであることを願っています。

 

まあ、もし本当にFFが死ぬ時には地獄まで一緒に付き合いますよ。はっはっはっ(まだ大丈夫だろうとは思ってるけど)。

 

 

 

サガ新作の情報はそろそろ出ないですかね。