『Les Enfants du Paradis』

 

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1945年のフランス映画『Les enfants du Paradis(邦題:天井桟敷の人々)』を観た。

 

 

 

観ようと思ったのは、一つにWorld's end girlfriendの曲名から。

 

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もう一つに、たまたま見かけた「本作はパリがナチスドイツに占領されていた時代にフランスのスタッフによって制作されたもので、特に血なまぐさい描写などないラブロマンス映画ながら──否 それをもってパリ・フランスの精神を叩きつけた作品」みたいな紹介に惹かれるものがあったから。

 

 

そしてもう一つは、『Les enfants du Paradis』(直訳で「天国の子供たち」。当時の劇場では最後方・天井に近い安値な客席を「天国」と呼び、この席から野次を飛ばす所得の低い観客たちをその名で呼んだ。)という題名が、なんとなくシャニマスの七草にちかだなー、などと思っていたから。

 

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舞台は1820年代のパリ。影のある美女ガランス、女誑しな名役者フレデリック、内気だが天才肌の無言劇役者バチスト、ガランスと繋がりのある裏稼業家ラスネール、ガランスを上流社会に誘うモントレー伯爵、それらを中心に取り巻くラブロマンスストーリー。

 

3時間以上にも及ぶ白黒の古典映画ということで「途中で寝ちゃわないかなあ」などと思っていたが、それが結構面白く最初から最後まで引き込まれるように見入ってしまった。

昔の作品って「現代の作品なら大体こういう流れだよな」という感覚が通用しないようなところがあって、微妙に先が読みづらい面白さがある(レビューを見ていたら手塚治虫作品を引きあいに出しつつ同じような感想を書いてる人がいて、ズバリそう!となった)。ラストは「そんな終わり方すんの!?」とちょっとショッキング。

 

さて「血なまぐさい描写はないが」という触れ込みで観たものの、見終わってみれば嘘つけそんなことないわ!という印象。いや流血やグロテスクシーンこそはないものの、そもそも不穏な見世物小屋が並ぶ前半の舞台「犯罪大通り」から始まり、その猥雑な空気から伝わる主要キャラの背景像、殺意をチラつかせる裏稼業一味、銃で命を奪い合う決闘、そしてとうとう終盤に殺し殺される主要人物たち。上品さと猥雑さが入り混じった空気が当然のように渦巻いていて、その中で登場人物が(あるいは視聴した私達が)「おお愛とは人生とはなんぞ」と嘶く作品だ。鞘に納めたまま刃を向けられているような鋭さがある。

 

 

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「ガランスという美女の幻を追い続ける男たちの話」という総評を主にされている。冒頭に出てきた見世物小屋「真理」のように、男はただ一人の女に好き勝手に理想を投影すると。確かにそんな話だったかなと思うし、特に第一主人公的な天才役者バチストの 本人放ったらかしで彼女に溺れる様はちょっとコメントに困るくらいだ。

一方で私は、この作品はガランスという女の「半生史」を軸に出来ている話なんだなと思いながら見ていた。物語の総体は(基本は二人の役者視点でありつつ)彼女の裏稼業一味からの脱却から、役者達との恋、そしてやむを得ず伯爵の愛人になって以降と、彼女の歩みと共に変化していく。いや実は主な登場人物はみな物語の進展と共に立場が変化していっているのだが、私はこのメロドラマの柱となっているのは彼女の半生なんだなという視点で観ていたと思う。その見え方自体が「幻」だと言われればそうかもしれないし、単に淡白に俯瞰していただけかもしれない。

 

(ガランスの役者がそんな美人には見えないというのはまあ作中の話だから……ということにしていたが、役者さんは当時四十半ばだと訊いたら流石に「それは絵面以前に設定面に対してどうなんだ」とは思った)

 

 

ナチス支配下でフランスの気概をもって手掛けられた作品だという点。自分にはまだその時代背景までは分かりかねるが、作中のパリに立ち並ぶ芸術や舞台は勿論、主要キャラたちがフランスの実在人物たちをモデルにして物語を象っているというのも「フランスによるフランスの為の映画」っぷりが想像に難くない。

またその気概を感じさせるような台詞もいくつかあって、最たるものが自分を捕えにくる警察を待つ裏稼業家ラスネールの辞世の句、「小さな田舎で処刑されるのはごめんだ。俺はパリの断頭台で死ぬ。」(うろ覚え) キレッキレ! まさしくパリという街に生きた者ならではの言葉なのだろうし、この作品からほとばしる「品と猥雑」を裏側から示すような言葉だったかもしれない。

そしてもう一つ、名台詞の嵐と言われる本作のなかで特に自分の琴線に触れた台詞がある。「美は、醜いこの世に対する侮辱なのです。」

 

 

そういえばこの『天井桟敷の人々』という題名を象徴するような台詞はあっただろうか? そもそも何故天井桟敷をタイトルに選んだのか? それは、自分に振り向いてくれと乞う伯爵に対してガランスが返した言葉が、きっとそれに当たるのではなかろうか。(あなたは)何故貧しい者のように愛を?」。そして別の場面では天井桟敷を指して「以前は私もあそこに居た。」と。

安い天井桟敷から観劇に盛り上がる群衆。貧しいかのように愛を求める人々。品と猥雑と、夢と現実と野心と後ろ暗さが入り混じるパリという街。それらを「天井桟敷」という場所に込めたような、そんな題名なのかもしれない。にちかはどう思う?

 

 

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world's end girlfriend - Les Enfants du Paradis (MUSIC VIDEO) from"SEVEN IDIOTS" - YouTube

 

 

「俺は誰も愛さないのだ。」と高らかに宣うラスネール。いじめと虐待の中でずっと夢を見ていたという内気なバチスト。辛い生い立ちをちらつかせるガランス。きっと世界は古今東西そんな者達の集まりだ。そしてそれぞれの歩み。宣っていたラスネールは嫉妬と虚栄から人を殺し、ガランスは最後にはバチストの前から去るしかなく、そしてバチストはあろうことか妻子を盛大に放っぽってガランスの名を絶叫しながら走っていく。


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傍から見返せばほぼこんな空気。いや本当彼らは何を手に入れたんだろうな。

 

だがこの登場人物たち、そんな物語に反してみんなやたらイキイキしているのだ。躁鬱を繰り返しながらも心踊らせまた芸に昇華するバチスト。嫉妬と失望にキレながらも意地でもバチストを手放さない妻メアリー。バチストと一緒になれずとも最後まで凛として勝手に動き続けたガランス。「やがては飛ぶ首をまっすぐ立てて闊歩するのだ」を本当に貫いてしまったラスネール。もう一人の役者フレデリックは あいつはもう絶対大丈夫だろという謎の確信すらある。

とにかくみんな毅然としている。唯一鬱状態っぽさを見せるバチストも最後は身勝手にも走り出す。その「逞しさ」こそが、この作品が渾身を込めて打ち出した精神そのものなんじゃないかとすら思う。

文化的描写も一人一人のドラマも多々あれど、核心はもう「こんな物語でも凛としてあるのが我らがフランスだ」と。「すべては喜劇でもあり悲劇でもある」。なんかもうそういうことなんじゃねえかな。ああ天井桟敷の人々よ。

 

 

 

さてさてそんな話をシャニマスに繋げるならば、どの登場人物に近いルートをにちかは歩むだろうなんて考えてしまうが、しかしやはりこの映画はラブロマンス。内気な夢の中でやっと光を見つけたバチストと、薄暗い半生でこの人こそと思える人に出逢ったガランスを主軸にした物語。彼彼女らが恋に踊り光を追いかけるからこそ物語は回転していく。


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https://www.marimo.or.jp/~chezy/mozart/op2/k265.html

 

そういえばフランス民謡(Déjàvu)。

にちかに必要なものは? と言われるとそれはただただ他者との共生で。だからこそ『アイムベリーベリーソーリー』と【奏・奏・綺・羅】はあったわけで。『天井桟敷の人々』になぞらえればにちかはまだまだガランスに出逢う前のバチストのようなもの。なあ天国の子供たちよ。

 

 

まあシャニマス公式の進みに合わせるのももういいんじゃないかなって感じだけどね。

 

 

 

 

 

唐突だけど、最近はラスレムリマスターにハマってます。

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「暗い時代ゆえに大衆は深刻な芸術よりも明るい娯楽を好むようになった」みたいな話、私はまさにそういう時代性を感じながらも肌に合わなさを覚えるのだが(逆にそういう「脆さ」が透けてみえる気がするじゃん)、「美は、醜いこの世に対する侮辱なのです。」くらいはしっかり覚えて帰りたい。

 

 

 

 

 


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